
![]() |
|||||
イタリア本、手当たり次第 |
| NOTA | まえがき | |
| Ho letto!1 | こんな本を読んだ | L'ANGELO NERO「黒衣の天使」/TABUCCHI |
| Ho letto!2 | こんな本を読んだ | Lilit「リリット」/REVI |
| NOTA |
| ちいさな頃から本が好きでした。おおきくなって、イタリアの言葉が好きになりました。だからイタリア語で書かれた本が好きです。 いいじゃないの、イタリア語ならば…そんな感覚で手当たり次第、本を読みます。いつの日にか自分の選択眼が養われることを信じて。 本の選択基準は特にありません。インスピレーション、霊感。 並べられた本たちが、こっそり自分を呼ぶちいさな声を聞き逃さないように耳を澄ます。 こうして結局、自分の好みに、すとん、と落ち着く本を選ぶ傾向があります。 限りなくやさしくて、どこか哀しくて、すこし胸にしみて、なぜか懐かしい、そんな物語。 買うのは主にTASCABILE(pocketable、廉価版、文庫本、いわゆるペーパーバック)。 ハードカバーは高いし、重いし、かさばるし。TASCABILEは紙質が悪いけれど、薄くて軽いから、いい。 ”Leggo sempre i libri usati…” /本はいつも古本を読む…新しい本は背表紙も頑なだし、ページもめくりにくい…というモノローグで始まるイタリアの現代小説があります。主人公は、政治運動に関わった過去から逃れるように、身を潜めて生きる男。 彼自身もまた、そんな風に手垢のついた過ぎし日の一冊に生まれ変わりたいのかもしれません。 選ぶ本の傾向が、同時に生きる傾向を示唆するものならば、わたしの場合はさしずめTascabileな本と人生。 書斎にひっそりとで眠る本もすてきですが、たしかに、一緒に旅にでる本のほうが、似合っているかもしれない。 そんな一方的・私的な基準と判断に基づくイタリア現代文学考です。よろしければ、しばしお付き合いください。 そして、もしもご覧になった方が本への興味を抱く、そのほんとうにほんのわずかでも、ひとつのきっかけとなれば、ほんとうに幸いです。 |
| Ho Letto! | |
Lilit "Lilit ed altri racconti" [リリット] ("リリット" 他短編集より) di PRIMO REVI 著者:フリモ・レーヴィ 初版:1989 |
Primo Revi プリモ・レーヴィという作家の書く主題は、その多くが、第二次世界大戦時に起きたユダヤ人の悲劇について語ります。 原題"La vita e` bella"、「ライフ・イズ・ビューティフル」という題名で公開されたイタリア映画の中でも、ひとりのユダヤ系イタリア人とその家族に降りかかった悲劇を扱っていました。 実は、イタリアの近現代の文学作品には、この「悲劇」を描いたものが、実にたくさんあります。ほんとうにたくさんあります。 イタリアはその当時、ムッソリーニ率いるファシズム国家として、確かに独日と共に同盟を結びました。 けれども、幸いなことにイタリアは、ナチスの行った人種排斥運動に対しては、むしろ反対の主張をとっていたということです。 とはいえ、犠牲者が皆無であったというわけでもありません。残念ながら…。 ヨーロッパの近現代文学作品を読み解く上で、このナチスによる大量虐殺は、外すことのできない問題のようです。 この問題は、遅く遠い国に生まれてきた者にとっては、語る資格などないと、ただ口をつぐむばかりですが、けっして何も考えていないわけではなく…、ただ、あまりに深く、難しい問題なので、ほんとうに言葉が出てこないのです。 ***** "Italiano"イタリアーノ、「イタリア人」と仲間に呼ばれている男、主人公。 仲間というのは、ナチスに連行された、ユダヤ人の強制収容所内での、仲間。 なるほど、彼はイタリア人。実は彼にも、れっきとした名前があるのだが、ユダヤの民という共通点こそあれ、生まれも育ちも言葉も異なる国々から掻き集められた集団のなかでは、通りのよい呼び名だけが飛び交う。 "in questo nostro incontro a quattro zampe" 四つ足の獣のような生活の中での出会い…、強制収容所での生活、そこには人間としてのアイデンティティー、名前、など認められないのかもしれない。 主人公と同じ部屋の仲間に"Tischler"ティシュレルー大工ーと呼ばれる男がいる。ポーランド系ドイツ国籍のユダヤ人。 彼は父親から教育を施されたので、そこそこイタリア語を話すことができる。ただし、父親が熱狂的なオペラ・ファンであったために、ティシュレルのイタリア語は、かなりこぶしが効いている、浪花節的イタリア語。 明日も見えず、今日を生き延びるだけで精一杯の収容所内で、このティシュレルの存在と、彼の愉快なイタリア語は、主人公にわずかな慰めを与えてくれる。 ある晩、ティシュレルは主人公に"リリット"という女性の物語を語る。英語では"リリス"。神がこの世に送り出した、最初の女性。 リリット(リリス)は、ほんとうはアダムの妻エヴァ(イヴ)よりも先に、この世界に創り出された。 いまここに明かされる、アダムとエヴァの楽園追放以前に行われた、原罪よりもさらに罪深き罪。 リリットは、創造主みずからの手によって失敗作との烙印を押され、早々と楽園から追放される。そしてサタンの妻となり、魔女に化身する。 やがてサタンは神に敗れるが、魔女になったリリットは、ひとり身の孤独をかこつ創造主の愛人になる…そんなストーリー。 ティシュレルは言う、オペラちっくな浪花節で。 「神がリリットという淫乱女に騙され続けているが故にこの世に不幸があるのだ。だが、いつかは正しき者の手が、リリットに鉄槌を下すであろうぞ!」 今でも主人公は、ときおり封印したはずの過去のなかに、よみがえる記憶をみる。 でもすべてではない。たとえば、ティシュレルが語った、ただこのリリットの物語だけ。 もう痛くない。苦しみは過去になった。自分はもう、あの場所にはいない。 過ぎてしまえば、どんな思い出も、擦り減って、色褪せてしまうのだろうか。 そうかもしれない。でも、理由はそれだけではない、たぶん。 あの時代の記憶は、届かないところに閉じ込めてしまわなければ、自分が保てないほどに辛いからなのだろう。 清潔に漂白された、白く明るい温度のない、主人公のモノローグが簡潔に描かれる。 「なぜ、信じる者が、そしてあの日々のなかで自分にわずかなりとも笑いと勇気とを与えてくれた人間が、死の手を免れえず、なぜ自分が生き延びたのだろう…。」 この読後感の「白さ」は、なんと表現すればいいのだろう。 たとえば、真夏の午後三時、窓の外で空が黄と灰の色に染まる。 今はまだ静かだ。部屋の中にいる。病院の一室のような部屋。ここはとても静かだ。そんな「白さ」だ。 もうすぐ嵐が来る。きっと天が割れたように雨が降る。 その嵐は、失われた人への慟哭という、激しい衝動だ、そんな予感がする。 (2001.4.10) |
| torna su/back | |
| Ho Letto! | |
L’ANGELO NERO [黒衣の天使] di ANTONIO TABUCCHI 著者:アントニオ・タブッキ 初版:1991 廉価版初版:1993 |
ときどき、思い出したようにひっくり返す本です。久しぶりに、また手に取りました。(同じ本を何度でも読みます。すぐ内容を忘れてしまうので) 6つの中編からなる作品集。長すぎず、短すぎず、いずれも通勤電車の中で読むのにほどよい作品群。 けれど、朝一番でこの物語たちに触れるのは、なるべく避けたほうが良いでしょう。 むしろ、帰り途。疲れきった人々、声高らかに喋り合う人たち、携帯電話を見つめてメール書きに没頭している人、酔い潰れて深い眠りに落ちているひと…そんな見知らぬ群集のなかにいて、揺れる列車のリズムに身体を預けながら、ひっそりとひとり別世界へと逃避するのにふさわしい作品たちです。そして、ドアが開いて、そこが自分の降りるべき駅だったら、本を閉じ、再び「こちら」の世界に戻ることにしましょう。さもなければ、タブッキの仕掛けた罠の「あちら」の世界は、夜の列車を永久の旅へと走らせ続けることになるかもしれません。 それくらい、とても不思議で、ちょっと恐いお話なのです。 ***** 主人公たちは、若い女性アリ、年老いた男性アリ…さまざまな理由から、みな一様に人生に疲れている。 彼らにとって、生きることは長い旅に似ている、とてもとても長い旅。 目的も終着点も、すでに擦り切れてしまった彼らの地図は、もはや何も指し示しはしない。 ある者は足掻き、ある者は口をつぐんでいるけれど、誰もが諦念に満ちている。 ふと、そんな欠落だらけの日常の隙間に入りこむイベント。強引なまでに彼らの後ろ髪を引っ張り、直視させようとする、「なにか」、人物や出来事。けれど、何を直視しろと?それは、罪とか後悔とか苦悩とか、おそらくは自己の内部に巣食う負の対象。 曖昧な日常、悄然とした日々の中に訪れる、鮮明なる幻想のひととき。それは長い旅路の合間に舞い下りた、L’Angelo nero/黒衣の天使との一瞬の対話。 すでにぼろぼろの心しか残っていないのに、主人公たちは、そこからさらに最後の血や涙の一滴を絞り出す。「痛い、苦しい、イタイクルシイイタイ…」そんな声が聞こえる。とてもかすかな声だけれど。 その昔、病に伏せる人間は、しゃ血を施された。からだの中の悪い気を抜き出すために。 この本の登場人物たちも、心の病から健やかに立ち上がるために、そんな治療を受けることにしたのかもしれない。 天使よ、降臨せよ―ー心の闇を照らす白き衣の天使では、あまりに眩し過ぎる。だから彼らのもとには、黒衣の天使たちが現れる。 いつものようにタブッキの筆は飄々としている。痛みを描きながら、彼の文章はほのかな笑いを誘う。笑いがあるだけに、いっそう恐い。大人だわ…タブッキ、とうめいてしまうほど。 ”Engel und Puppe:dann ist endlich Schauspiel.” 天使と操り人形、それはまさしく見世物だーーというリルケの一文が文頭に置かれている。わけもなく、恐さ倍増。天使とは「救い」のモチーフにさはあらず、とあらかじめ警告しやがるとは…。 ただし、まえがきのなかで、タブッキも「この物語たちは、ある一時期わたしの心に立ち現れたものたちで、今読み返すとなんだか疲れを感じてしまう」と述べている。やっぱりな…。 だからこの本を読むなら、帰り途の電車の中が最適。ひとりきりではなく、多数のなかのひとりになって、一日の始まりではなく、なんとなく疲れた身体をひきずり、安らかな眠りに就くまえのひとときに。この一連の物語は、たぶん「心のなかにある負の存在」を夢に消化し昇華するするための、穏やかな心のくすり。(2001.3.15) |
| torna su/back | |